理系Sの牝奴隷には言えない話
vetのSMに関するいろんな話
はじめに

 いらっしゃいませ、とでも書くべきだろうか。とにかく、あなたが見に来てくれたことは素直に嬉しい。ありがとう。

 このブログはSM、男女の主従関係に関することを主に取り上げて書いている。なので少しアブノーマルだ。だから、初めてこのブログを訪れた人は、右側の欄の”このブログについて”をまずは読んで、それに同意できた場合のみ、読み進めて欲しい。

 また、このブログ、少々ややこしい構成になっている。そのあたりも説明してあるので、それも理解してから読んでもらえればと思う。説明を読んで問題がなければ、二度目以降からは以下のエントリーを好きなように読んでもらえればそれでOK。

 AVや他の本格的なSM系サイトなどとは、多少違った視点からのSMの世界を知ってもらえれば、幸いだ。特に読者を指定するつもりはないが、御主人様を探しているM女などにはSMの実態を知るということで、参考になるのではないかと思うので、御主人様を選ぶ前に、SMの世界に飛び込む前に読んでもらえれば嬉しく思う。

 私への意見や質問、相談、その他の話などがある場合には、右側の欄の中段あたりにある”管理人、vet宛メール”のところのリンクから、メールフォームにいき、メールを送っていただければと思う。メールフォームは2つ用意してあるが、どちらから送ってくださっても構わない。また、各エントリーのコメント欄に書いてくださってもいいので、気軽に話しかけてくれればと思う。


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奴隷の装飾について。

といっても、奴隷に、私が好む服装をさせるというのとは、少し違う。

もう少し、肌に近い部分。

そして、装飾と言っても、奴隷を美しく、綺麗に見せるために飾るものとは、限らない。

というよりも、恥辱を与えるという、御主人様の目的があって、その結果として、綺麗に見える方向にいく場合があると言ったほうがいいかもしれない。

そういう話。


奴隷の陰毛を剃ること、パイパンにさせることというのは、私にとっては、装飾以前に、M女と主従関係を結び、自分の奴隷にしたときにする儀式の一つと言っても良かった。

だから、奴隷と初めて体を合わせるとき、最初だけ、私が剃って、あとは、このまま維持しろと命じるか、はじめから、剃っていた場合には、そのままにさせていた。

今は、ノーマルでも、女が陰毛を剃るのは、色々な理由で、別に珍しいことではないようだから、パイパンにすることで、奴隷らしいと思うという感覚は、奴隷(女)の側にも、あまりないのかもしれない。

そこは、時代の変化なのかなと思うけれど、私にとっては、奴隷に対して、最初に、私の奴隷としての姿、身だしなみを整える行為の一つだった。

だから、私の場合の、奴隷の、奴隷としての装飾と言える。

でも、奴隷だからといっても、陰毛を剃ることを、させない御主人様も、普通に居た。

私とは違って、パイパンにさせることに、奴隷としての特徴を感じない人も、当然いる。

さらに、陰毛の手入れすらも、禁じていた御主人様もいた。

最初は、それに少し驚いたものだが、話を聞くと、そういう考え方もあるのだなと、納得した。

なぜ禁じるか?というと、処理を許さず、陰毛がわざとはみ出ている状態になるように、小さい水着を着せて、海やプールに連れて行くのだそうだ。

それは、剃られるのとは、逆の意味で、奴隷は恥ずかしかったのだろうと思う。

こうなると、やはり、奴隷に、施すための装飾と言ってもいいと思う。

また、それとは違う人だったが、面白かったのは、陰毛アート?をしていた御主人様がいた事。

前に、そういうことをしている人の話を、教えてくださった方がいたので、私が出会った方が、特殊だったのではなく、奴隷で陰毛アートを楽しむ人は、一定数いるのだろうけれど、

それをやっていた御主人様、本人から、直接話を伺ったことがある。

奴隷の陰毛を、円形に剃ったり、逆じゃない三角形に剃ってみたり、ストライプにしてみたり、”:”にしてみたり、と、そういう写真を見せていただいた。

「ミステリーサークル」なんて、それを一緒に見ていた人が、うまいことを言っていたけれど、場所も場所だけに、確かに、ミステリーだなとは思った。

奴隷の陰毛一つでも、装飾として、こんなことを思いつくのだから、人(変態)の欲求というのは、なかなかに興味深い。

そして、そんなふうに剃ることができる、御主人様のカミソリの技術に感心した。

とはいえ、奴隷も大変だっただろうなと思う。

適度な長さになるまで、陰毛を伸ばすことを命じられ、伸ばしてみたら、股にミステリーサークルが作られ、そのまましばらく過ごさせられる。

また伸びてきたら、別のミステリーサークルになる。

宇宙人に連れ去られて、頭にチップを埋め込まれたとしても、おそらく、そこを改造されて帰ってくることはないと思う。

その奴隷は、どんな気持ちで、自分の股の、幾何学模様を見ていたのだろう?

本当に、いろいろな嗜好の人がいる。


とはいえ、奴隷の体に、装飾を施すことで、恥辱を与えて遊ぶというのは、昔からされてきたことだ。

奴隷とは限らないが、女体盛りなんていうのも、その一つだろう。

奴隷の体を食器にして、そこに、料理を盛る。

自分でもやってみたこともあるから、何度か、見る機会があった。

でも、本物の料理人?が作った、上手に盛り付けられた女体盛りは、すごく綺麗であると同時に、卑猥で、奴隷に屈辱を与えるものに見えた。

素人が、スーパーのお惣菜コーナーで買ってきた、色々なものを、適当にのせて作るものとは、全くの別物だった。

緊縛なんかもそうだが、それをやる人の技術によって、こういうものも、美しさという意味での、クオリティは、かなり違ってくる。

ただ、美しければ、美しいほど、興奮するか?というと、そういうわけでもない。

とにかく雑多で、乱暴に汚されているほうが、奴隷らしさや、性欲を、高めることもある。

私が、奴隷の服やパンストを破り、縛って、ゴミと一緒にして、しばらく置いておいたことなんかも、前に、エントリーにしたことがあるけれども、

奴隷に対する装飾というのは、綺麗であることだけが、良いわけではない。

そういう部分も、SMの調教らしい、面白いところだ。

また、奴隷の身体に、卑猥な落書きをすることも、よく行われる調教の一つだろうと思う。

こちらは、とにかく、汚く、恥ずかしい状態にするほうが、好まれ、よく行われる。

奴隷の体に、きれいな絵や、体に合わせた美しい模様を描かれたら、多分、それは、アートになってしまって、興奮する要素が減るようにも思う。

さすがに、そんな奴隷を間近に見たことがないので、実際のところどうなのかは、わからないのだが。

もう少し、ハードになると、タトゥーを入れるとか、性器や乳首にピアスや、何かの飾りを付けることなども、昔からされてきた。

以前、twitterで、お話をさせていただいたことのある、御主人様の奴隷は、外を歩くときに、牛のような、鼻輪を付けられていた。

そんなことも、奴隷の体への装飾の一つ。

奴隷で遊ぶというと、SM行為や、性行為が、一番に思い浮かぶと思うが、こういう、装飾をすることも、ノーマルでは、あまりされない場合が多いから、

奴隷らしさを引き立たせたり、奴隷に対して、惨めさや、恥ずかしさを与えることにもなる。

また、奴隷自身が、望むこともある。

それは、奴隷が奴隷になったこと、御主人様の所有物であることを、自分で、確認することができるものの一つでもあるからだ。

御主人様との時間が終わり、家に帰ったとき、体に残るものを、奴隷が欲しがることは、多い。

強く吸われたり、噛まれた痕、掴まれた痕、縄の痕、鞭の痕、また、物であれば、御主人様につけられた、アクセサリーだったりもする。

こういうものは、ただの飾りとか、ただの儀式だと、言われることもあるし、こだわらない人も多いと思うが、少なくとも私にとっても、また、おそらくは、奴隷にとっても、大事なことの一つだった。

装飾ということで、派手ではないし、注目されることも少ないかなと思うことを、書いてみたが、

主従の雰囲気を作ること、また奴隷が奴隷であることを自覚したり、御主人様との関係や、繋がりを感じたりするためのものにもなることだから、私は、大事にしていることの一つ。


今回は、装飾といいつつ、首輪のことや、フェチのことを書かなかった。

それは、私のこだわりが強い部分なので、書き始めると、装飾の話の中では、収まらなくなる気がしたから。

それらについては、また、書きたくなったら書こうと思う。

テーマ:主従関係 - ジャンル:アダルト



開放というと、奴隷を捨てるということを、イメージされることも多いように思うが、そういう話ではない。

それに、捨てる場合だと、解放になるのかなと思う。

今回のエントリーは、捨てるという意味ではないが、こっちの解放でも、構わない。

奴隷(御主人様)の居場所についての、気持ちの変化の話だから。


M女が、S男と主従関係を結び、晴れて、その御主人様の、奴隷になった、というだけで、いきなり、満足できるわけではないのだろうなと思う。

それまで、ノーマルな世界しか持っておらず、M性を出すことができずに、苦しんできた。

それが、主従になったことで、心底から、安心して、落ち着けるのか?というと、単純に、そうではないのだろうなということを、

奴隷を持ったとき、気付かされたし、このブログを始めてから、いただいたご相談の中からも、多く感じた。

奴隷が、自身の中にある、M性というものを、本当に肯定できるようになり、居場所を居場所だと、思えるようになるには、2段階のプロセスが、必要なのかなと思う。

というよりも、本当は、2つが揃って、初めて、”奴隷”、なのだろうけれど、そのうちの、1つだけで、奴隷になってしまって、主従になったのに、うまく行かないと思っていることも、あるのかなと感じる。


誰かと主従関係を結ぶ。

そういう人と出会う。そして、”奴隷”と呼ばれる立場になる。

奴隷(M性を持ち、それを満たしたい人)にとっては、M性を見せることができる、相手である、御主人様を見つけることが、大抵の場合、最初の開放なのだろう。

これは、すごくわかりやすいと思う。

”奴隷”という、称号を得られるのだから。

表の世界では、言えないことを言える相手、できないことができる相手を見つける。

それは、すごく大変なことだし、それを達成したことでの満足感も大きいと思う。

そして、主従の世界にいることのできる時間が、得られる。

二人で話す内容、する行為に、ノーマルな世界にあるような、制約はない。

だから、これは、表の世界、M性を出すことで問題が出てしまう世界からの、開放だと言えると思う。

実際には、主従関係を持っても、ずっと、主従の世界にいるわけではないので、開放というと、大げさかもしれないけれど、M性を隠さないといけないという、かなり大きな制約を、外してもいい時間が持てる。

そういう話を、普通にすることができる。それだけでも、大きな変化だ。


でも、主従になってみたものの…と、悩んでいる、結構、多くの人が、ここで、立ち止まっている気がする。

悩んでいないなら、別に、これ以上考えなくていい。

幸せで、満たされているなら、それで問題ない。

M性という、ノーマルではない、感覚を、満たされたくて、持て余してしまって、また、主従でなければ、どうしても居場所を見つけられなくて、

わざわざ選ぶのだから、主従関係を選ぶ以上、満たされたところが、最終地点でいいと思うし、

満たされたと感じられたなら、これから書く、2つ目も、意識することなく、クリアしているのだから。

なので、そういう場合は、それでいいとして。

誰かと主従関係を結び、奴隷になったということで、達成感、開放感はあるから、一定の期間は、おそらく、興奮度も高く、満足感を得られると思う。

でも、それは、”主従関係になる”、という、大きな変化によって、もたらされたものであり、言うなれば、イベント。

その次にあるのは、”主従関係を継続する”ということ。

時間として、おそらく長い(長くあってほしいと願う)のは、後者だろうと思う。

でも、「主従関係になれた」、「奴隷になれた」という、イベント以上に、インパクトのあるイベントは、継続段階では、あまり起こらないと思う。

主従によっては、SMで、プレイを、どんどん過激にしていくことで、常に、イベントを作り出し、目まぐるしく、変わっていくことも、あるとは思う。

良い例かどうかはわからないが、少年漫画で、戦闘力が、インフレしていく過程のようなもの。

これを始めると、もう、何でもありにしないと、続かなくなる。

最初は、命をかけて、やっと倒したはずの、ものすごい強かった敵が、指先で倒せるようになったりする。

そして、主人公が、トレーニングをして、ギリギリ倒せるくらいの敵が、都合よくやってくる。

その次も、その次も。

最初からラスボスが来ることはない。

というよりも、敵の強さは、どんどん上がるけれど、いつまでもラスボスは来ない。

常に、前回を超えないとインパクトが無いから。

また、最初は、キャラが死んでしまうのは、つらいシーンのはずなのに、このキャラ、何回生き返ってるんだ?という感じで、

どうせ死んでも、次のときには、なにかの新しい設定が出てきて、生き返るんだろうと思うと、そのインパクトも薄れていく。

どうせ生き返るなら、と、どんどんキャラクターが死んでいったりする。

こんなふうに、継続していくために、インパクトを求め始めると、際限がなくなる。

同様に、前のSMプレイよりも、もっと過激なこと、更にその次…と、進めていくなら、過去のプレイの刺激には鈍感になっていく。

ただ、漫画の場合には、それでも、人気が一定以上なら続くし、また、読者も、そういう前提で見る事自体を楽しむようになるから、それでもいいのだろうけれども、

SMや主従で、それを始めてしまうと、最初に、絶対に譲れないこと、NGだと言っていたこと(いうなれば、ラスボス)が、いつの間にか、NGではなくなり、

さらに、悪くすると、表の世界の、モラルとか、法律とか、そういうものを超え始める場合も出てくるから、困った状態に陥ることになったりもする。

だから、個人の主従において、常にインパクトを求め、SMプレイを過激にしていく方法で、主従関係を維持しようとすることは、崩壊に向かうことと紙一重だろう。

もともと、そういう過激なSMをしたいということで、始めた主従なら、徐々に慣らして、より激しいプレイに移行していくのは、その過程だから、問題ない(モラル的、法律的に問題ないかどうかは別の話)のだが、そうでないならば、この方法は、先が見えている。

と、少し、話がそれたが、主従関係になった、という、1つ目の開放のインパクトが、薄れてきて、その興奮状態から、覚めてきたときに、

その主従関係を継続したいと思うための、気持ちを持てるかどうかが、その後を決めていく。

主従になった!というすごく大きな感情の動きから、継続するための気持ちに、切り替えていくということ。

これは、インパクトは、大きくないというか、無いと言ってもいいと思う。

むしろ、興奮することとは反対に、その主従の中に、居場所を見出し、穏やかに、そこに、落ち着くことだと思う。

最初の興奮から、覚めてきて、奴隷自身の意識が、そういう方向にいけるのかどうか?

また、それは、同時に、相手である、御主人様も同じように、考えている必要があるものでもある。

二人で、そういう方向に行けるかどうか?

一緒に過ごすことであったり、声や、メッセージなどで話をすることであったり、他にも色々とあるけれども、普段の何気ないことを共にする。

それだけでも、理解者としての相手が、存在することに、気持ちが満たされるようになれるかどうか?とも言えるかなと思う。

ノーマルではなく、主従として、御主人様の奴隷として、繋がっているということだけでも、満足できるかどうか?かもしれない。

SMプレイのたびに、話をするたびに、常に過激になっていかなかったとしても、主従であること自体に、価値を感じていられるかどうか?

主従になったときと同様のインパクトを、主従継続のために求め続けてしまうなら、きっと、それはインフレしていく。

でも、そうではなく、一緒にいるだけでも、話しているだけでも、もっと言えば、同じ話を何度しても、同じプレイを何度したとしても、本当に少しづつの変化であっても、合うと思えて、それが心地良くて、

ノーマルでは話せないことも含めて、話せる相手とつながっていることを良しと思えるかどうか?が、継続のために必要なことの一つかもしれないと思う。

ときには、それが、退屈だと感じることもあると思うし、毎回同じで、面倒だと思ったり、もっと興奮度の大きなことや、普段と違ったことを求めるときもあると思うから、

気持ちが絶対にゆれてはいけないなどとは思わないし、揺れることが無いほうがおかしいと思うけれども、

たとえ、揺れたとしても、居場所を、意識することで、嬉しい、失いたくないと思えるなら、それでいい。

こういうふうに、気持ちが落ち着いていくことは、主従関係を持ったという開放感からくる、大きなインパクトからの開放だと、私は思う。

気持ちを落ち着けて、常に興奮状態でなくても、一緒に居たいと思えるように、気持ちを変えていくことが、2度めの開放なのだろう。

これは、すごくゆったりとしたことだろうし、いつの間にか、すり合わせる中で、できていくことだと思うので、開放という言葉は、適切ではないかもしれないけれど、重要度で言うなら、1度目の、開放よりも、遥かに大きなことだろうなと思う。

こういう、2度の開放を経て、奴隷は奴隷として、居場所を得られるのかなと思うし、御主人様も、それを守っていけるのだろうと思う。

2度目を、それと意識しない人のほうが多い気はするから、このエントリーは、大げさな書き方だとは思うのだが、

最初のインパクトが薄れてきたときとか、時間が経って、なにか気持ちが揺らぐことがあるようなら、こういうことに、目を向けてみることも、必要なのかもしれない。

テーマ:主従関係 - ジャンル:アダルト



調教の一つとして、苦痛を与えるものがある。

それも、種類は多々あるけれど、奴隷を打つことは、そのなかでも、よくやられることの一つだろう。

手とか、平らなものだと、叩く、になるし、鞭のようなものだと、打つというほうがしっくりくるかと思う。

そして、私は、奴隷を打つ場合に、尻を使うことが多かった。

一番打ちやすい部位だと思う。

そして、背面だから、奴隷は、自分の尻が見えない。

打つとき、奴隷には、四つん這いか、壁などに手をつかせ、尻を突き出した姿勢を取らせるか、私の膝の上に腹ばいで、乗せた状態にすることがほとんどだ。

いつ打たれるのか?が、わからないという恐怖を、奴隷にあたえることが自然にできる姿勢。

私の雰囲気とか、動きの感じで、なんとなく、奴隷も察知するものではあるのだが、それもわかっているから、私もフェイントで、打つふりをしてみたりもするので、奴隷には、やっぱり、突然の痛みになる。

痛みに歪む顔と、それがいつ来るかわからず、翻弄される顔を、交互に見られる。

と言っても、奴隷の顔を、真正面から見られる体勢ではないのが、残念ではある。

それを差し引いたとしても、尻を打つときの、私の楽しさというのは、こういう部分だ。

ちなみに、次に叩くことが多かったのは、頬だろうと思う。

ただ、叩く位置がずれる(奴隷が、慣れていないと、反射的に避けようとして、顔を危ない位置に動かす)ことがあるので、力加減や、叩くタイミングなど、難しい部位ではある。

頬を叩くことで、思い出すのは、私は、街中で、男が、女に頬を思いっきり打たれている姿を、2度ほど見たことがある。

周りに、たくさん人がいるところで、女が本気で男の頬を打って、走り去るとか、泣き出すとか、

そんな、恋愛ドラマに出てくるような場面が、実際にあるのだなと、びっくりしたものだ。

東京って、すごいところだなと、思ったりもした。

それにしても、街中で、頬を打たれるような事態になるとは、いったい、男は、何をしたのだろうか?

それは、わからないけれども…。


話がそれたので、尻の話に戻すが、私は、奴隷を打つには、それなりの理由があるほうが、打ちやすかった。

奴隷が、粗相をして、「罰をください」と、自分から尻を差し出すような状況、罰を受けるのが当然なのだと、奴隷が思うような、理由があると、嬉しい。

もちろん、私が打ちたいから打つ、で、問題はないし、私も、そうしたことは、たくさんあるのだが、やっぱり、打つ理由、打たれる理由が、私と奴隷に、しっかりとあるほうが、調教に説得力が出てくる。

そういう意味で、頬などと、尻の場合には、少し違う。

奴隷が床に正座して、私を見上げているときなどに、顎に手を当てて、上を向かせたり、口に指を入れたり、おでこをはじいたり、そういうことをしている中で、

頬を軽く叩くようなこともするから、私の中では、頬は、罰を与えるという、意味合いは、それほど大きくならない。

頬を叩くのに、あまり理由はいらない。

また、奴隷にとっても、頬を叩かれることは、愛撫に近いものだったようにも見えた。

でも、尻というのは、悪いことをしたら、叩かれるもの、というイメージがなんとなく、子供の頃からある人が多いように思う。

私も、そういうイメージがある。

だから、尻を打つ場合には、奴隷に何か、非があると、打ちやすかった。

私の変なこだわりではあるけれど、そう思うのだから、仕方がない。

そして、そういう条件を満たしてから、プレイをするのも、調教をするときの雰囲気にもつながるから、楽しいところだと思う。

奴隷の尻を打つための理由も、本当に何でもいい。

それこそ、調教を始めるときの挨拶の姿勢が良くなかったとか、敬語を間違えたとか、その日の表情が良くないとか、もっと言えば、天気が悪いとか…。

「お前、昨日、てるてる坊主、作ったのか?」

「いえ、作っていないですけれど…」

アウトドアで何かをするのではない、普通に食事して、ホテルに行くような日であれば、そんなのは、当たり前だ。

それでも、いい。

「雨で、道、歩きにくかったな…」

「晴れたらって思っていたんですけれど…」

「じゃあ、なんで、てるてる坊主、作らなかった?」

「すみません…」

無茶苦茶だし、理不尽だし、ここだけ読んだら、もう喜劇だと思うのだが、これでも、調教の流れがあり、奴隷もその雰囲気の中にいると、説得力?を持つから不思議だ。

そして、奴隷を打つ、立派な理由になってしまう。

こんな風に、奴隷の粗相など、いくらでも、作れる。

無茶苦茶でも、こじつけでも、構わない。

それでも、なにもなく、ただ、打ちたいから打つ、より、私にとっては、やりやすい。

まあ、その後、奴隷は、調教の予定がある前日には、てるてる坊主を、吊るすようになったらしいのだが…。


そして、実際に打つ。

奴隷の痛みと比較することができないから、わからないけれど、平手の場合、叩いている、私の手のほうが、回数を重ねるうちに、奴隷の尻よりも、おそらく痛くなる。

だから、ちゃんと用意できる時には、鞭、用意するのが難しい場合には、手ごろな長さの物差しや、孫の手なんかで、打つことも多かった。

ただ、奴隷に、私の体温が伝わるほうが、いいというのは感じたので、平手も加えながらやる。

奴隷に、打たれた数を数えさせながら、その数を増やしながら、また、打たれるたびに、お礼を言わせながら、打つ。

奴隷の悲鳴や、それを押さえようとする、うめき声を聞く、心地よさがある。

あまりの痛みに、

「お許しください!」

という奴隷に、

「これで、お前は許されたと思うのか?」

と問いかける。

「それは…。もっと、お願いします…」

結局、奴隷も、打たれることで、満たされていたり、調教の雰囲気の中に、しっかり入っていると、自分から、やめるとは言わないことが多かった。

それに、奴隷がやめると言ったところで、私がそれに従うわけでもなく、私のタイミングで、やめる。

理不尽に付けた、打つ理由、そのための罰を、しっかりと受けたということになるまで。
実際には、奴隷の様子を見て、やりすぎにならないようにするのだが、それは、もちろん言わないし、奴隷の限界が来るよりも前に、私のほうが満足したり、手が痛くなったりして、やめることが多い。


こうして、書いてみると、ちょっと間抜けにも思えるかもしれないのだが、無理があってもいいから、理由をつけて打つことには、意味があったなということを、後から感じた。

それは、本当に奴隷が、許しを請いたいときがあるから。

奴隷が自分の落ち度で、私に迷惑をかけてしまったと、すごく反省して、その反省の度が過ぎて、落ち込み、捨てられるのではないか?とまで、思って、奴隷の気持ちが落ちてしまっているときや、

奴隷自身の中に、普段の生活だったり、仕事だったり、心の状態としてだったり、自分を責めてしまう、大きななにかがあって、それが出てきてしまって、どうしようもないとき、など。

私のこじつけなどではなく、ちゃんとした、打たれるべき理由、奴隷が許してもらいたいと思う事柄、心の中の重いものから、開放されたい何かがあるとき。

自分は、罰を与えられるべきなのだと、思っている奴隷に、ちゃんと罰を与える事を、私は、しっかりとしたかった。

SMプレイではあるけれど、奴隷の心に対して、大きく響かせる、尻打ち。

罰を求める奴隷に、ちゃんと罰を与えることが、私が御主人様として、本当にしたいことだ。

御主人様というのは、そのためにいるのだとも思っている。


そういう理由で、尻を打つときには、こじつけでもいいから、理由をつけて打ってきたことに意味が出てくる。

奴隷は、尻を打たれることは、罰を受けることだとわかっているから。

罰を受け、許してもらうためのものだと身体に染み込んでいるから。

しっかりと、罰を受けることで、してしまったこと、至らなかったことへの自己嫌悪や、罰を受けなければいけないという、心に空いている隙間を、少し減らすことができていたのだろうというのは、奴隷の様子を見て思ったことだ。

打たれることで、私が奴隷を許すと同時に、奴隷も、自分で自分を許せていたように思う。

奴隷は、自分だけでは、自分を許すことができないことが多かった。

自分で自分を、これでいいのだと、思えないことが多かった。

奴隷というのは、そういう部分、ものすごく、不器用なことが多いから。

それに対する、私の、私なりの受け止め方の一つが、罰を与えること。

尻を打つ。

奴隷には、そういうものが、必要な時がある。

だから、普段、尻を打つときの、こういう理不尽な理由付けも、悪いことではなかったのだろうと思う。

とは言っても、やっぱり、私としては尻を打つのが、楽しくて打っている。

それは、私の理不尽な理由付けのときでも、そうではないときでも、同じだ。

私は、私で、楽しむ。

打ちたいときにしか打たないし、打ちたいから打つ。

そして、楽しみながら、奴隷の心を受け止める。

そうしないと、多分、「私のために、したくないことを…」なんて、奴隷はまた気にするのだろうことも、わかっているから。

尻を打つこと以外の、苦痛系の調教も、似たような意味を持つことはあると思うけれど、尻を打つことが、奴隷の中の罰を受けたい気持ちを、満たす、一番ストレートな方法のように、私は思っている。

だから、尻を打つことは、楽しかったし、奴隷とのつながりを感じられることでもあったのだろうと思う。

テーマ:SM・拷問・調教・凌辱  - ジャンル:アダルト

このブログについて

著者:vet

 ※このブログには、エロ動画やエロ画像、官能小説のようなものは一切無いが、内容が内容なので、SMや主従関係という、恋愛の形に不快感を覚える人、違う世界の話だと思う人などはすぐにブラウザを閉じて、このブログのことは忘れるように。

 以前に飼っていた牝奴隷とのことを書いているブログ。奴隷を手放した経緯とか、過去の奴隷の話、そのときの気持ち、奴隷への想い、今だから考えられること、言えること。書きたいことを書きたいままに綴る。
 また、今、これを書いている私の現状について、ご質問を頂くことが結構あるので、それについては、
 ◆私について
というカテゴリの中に、”現状の私”というエントリーにして書いておいた。このカテゴリには、私自身のこと(私の好みや、調教の方針など)をメインに書いているエントリーを入れてあるので、興味のある方がいるかどうかは分らないが、もしも気になるなら、見ていただければと思う。

 SM話はストイックになりがちなので、多少軽いタッチのコラムも交えて書いてみようと思う。奴隷を飼っていない今だから書ける御主人様の本音などをできるだけわかりやすく、そして正直に。今、奴隷になっている牝や、御主人様を探しているM女なんかには、御主人様の側の気持ちが少しは分かってもらえるかもしれない。ちなみに、私は理系的な思考傾向なので、考えすぎることが多く、そのために、なにやらややこしいことになることも多々ある。そのあたりも笑って読んでもらえれば、幸い。

 メールやコメントなども楽しみにしている。気軽な恋愛話、気楽なSM話から、SMや主従関係のこと、Mであることなどについての悩みや、相談、質問など、真面目なお話まで、どんなことでも、しっかり伺おうと思っている。恥ずかしいとか、こんなことを言っては変に思われるのではないか?とか、考えることもあるかも知れないが、私は、それなりに長くSMや主従関係の世界に居たので、それほど驚くことは無いと思うし、他人と変わっていることでも、変だとは思わないできちんと伺うつもりなので、メールやコメントは、遠慮せずに送ってくださればと思う。

 リンクフリーなので、気に入ったら、好きにリンクしてくださればと思う。言っていただければ、私からもリンクするので、そういう意味でも気軽に声をかけてもらえれば幸い。

 このブログは、私が奴隷と過ごした日々を時系列で綴った続き物の話と、SMに関するちょっとした小話や、SMに対する私の考えや体験、見聞きした面白い話題などを個々に書いた単発物のコラムとが混在している。

 続き物の話は、エントリーの題名に第何話という番号が書いてあり、以下のカテゴリにまとめてある。
 ●最初の奴隷
 ●二匹目の奴隷
 奴隷と私とのストーリーを読みたい場合にはこちらを読んでもらえればと思う。

 単発物のコラムは、以下のカテゴリにまとめてある。
 ●四方山話:1エントリーでひとつの話
 ●四方山話(続き物):複数エントリーでひとつの話
 短い話を気軽に読みたい場合にはこちらを読んでもらえればと思う。

 単発物のコラムの中でも、SMの技術的な話だけは別にしてある。それは、
 ●SM技術
にまとめておいた。技術的なことに興味のある場合には、こちらを読んでもらえればと思う。

 カテゴリの記事は古い順に並べてあるので、カテゴリ名をクリックしてもらえれば、続き物の記事でも最初から順番に読めるようになっている。


  当ブログ内に書くことは、私が実際にやってみたことや考えたことであって、それが正しいかどうかを完全に検証したわけではない。だから、もしも同じことを試す場合には自己責任で、細心の注意を払って実行して欲しいと思う。SMなので、体への損傷などの可能性もなくはないから。とにかく気をつけて欲しい。そして、このブログ内のことを試して、いかなる不利益が生じたとしても、私、vetは免責されることとする。そのことはしっかりと承知した上で読んでもらいたい。
 奴隷のためにも、そして御主人様のためにも、本当に無茶なことはしないで、幸せなSMを楽しんで欲しいと願っている。

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